園原の歴史めぐり

地域文化財保全事業として阿智村がすすめてきた史跡「園原の里」の整備事業が、第三年度の「古典文学碑」五基の建設によって完了した。
これによって園原の里の文学碑は十二基になり、園原の里を尋ねる人々にいっそりの情趣を添えるであろうし、古代をしのぶしるべともなることをねがうものである。

新設された碑とは、神坂神社左手奥の磨崖の詩碑「信濃坂を渉る」、同神社入口の万葉集東歌「信濃路は」の歌碑、換気塔に隣接した史跡苑の李花集-「まれに待つの」歌碑、滝見台への道上に源氏物語の光源氏と空蝉の「ははき木」に因んだ贈答歌碑、万葉ふれあい館前の新古今集坂上是則の「園原や」の歌碑、いずれも園原にゆかりの古典作品である。

1.凌雲集の漢詩碑

凌雲集の漢詩碑

神坂神社の向かって左方から、神坂峠の登って行く山道がある。

たぶん古代東山道もここから神坂峠をめざして登っていったと思われるが、 その登り口に一つの巨岩が露出していて、多くの人や馬がこの岩を踏みしめて登り、踏みささえて下ったことが想像される。

平安時代初頭期の弘仁五年(八一四)に成立した勅選漢詩集「凌雲集」に載せられた五言八行の漢詩「渉信濃坂」は、この巨岩の左上方に黒御影石の埋め込みで磨崖碑として東面している。

また碑文の左下の露岩には、次の案内鋼板が埋め込まれている。

渉信濃坂 信濃坂を渉る (大意)信濃坂(神坂峠の古名)を越える 積石千重峻 積石は千重峻しく 岩石は幾重にも積み重なって峻しく 危途九折分 路急うして九折に分かる 危険な山道は屈折して分かれている 人迷邊地雪 人は迷う辺地の雪 旅人は人里を離れた国境の雪に踏み迷い 馬躡半天雲 馬は躡む半天の雲 馬は中空の雲を踏んで行くように見える 岩冷花難笑 岩冷やかに花笑き難く 冷えきった岩間の花は咲きそうになく 溪深景易曛 溪深くして景曛れ易し 深い谷間の日ざしは早く暮れてしまう 郷関何處在 郷関何處にか在る 故郷はどちらの方向にあるのだろうか 客思轉紛々 客思轉紛々 旅人の愁いはつのり千々に乱れてしまう

出典 凌雲集(勅選漢詩集)弘仁五年(八一四)成立
作者左大史正六位上兼行伊勢権大掾  坂上忌寸今継
揮毫 長野県文化財保護協会長
    長野県文化財保護審議員        黒坂周平

「凌雲集」はわが国最初の勅選漢詩集で、この「信濃坂を渉る」という詩は信濃国を詠じた詩としては最古の作品であり、「凌雲集」の中でも優れた作品といわれている。

「坂上今継」の身分について、「左大史」は太政官に属し宮中の文書を司り、諸司諸国の庶務を記録する官職、「正六位上」は官位、「兼行」は兼務することで、つぎの「伊勢権大掾」は伊勢の国の権官(定員外に権に任命した官)で、「大掾」は大国の第三等官であるという。

また「坂上忌寸」は渡来人の末裔といわれ生没年は不明であるが「日本後記」の編集にも関係している。
揮毫者の黒坂周平先生は、上田市東前山の方で「長野県史」編纂に携わられ、東山道研究の第一人者として知られており、「東山道の実証的研究」の著者である。

2.万葉集東歌の歌碑

神坂神社入口の階段横に建てられた万葉集東歌の歌碑は、万葉集学者で独特の朗詠で知られる犬養孝文学博士の揮毫により、万葉仮名で次のように刻されている。

信濃道者伊麻能波里美知可里婆祢尓安思布麻之牟奈久都波気和我世

本碑の脇の副碑には、この歌の読み方や大意などが埋め込みの鋼板に刻まれている。

信濃道は今の墾り道刈りばねに足ふましむな沓はけわが背 万葉集東歌  巻十四-三三九九

大意 信濃路は今できた道です。
木の切り株で足にけがをなさいますな。
沓をはきなさい、あなた。

和銅六年(七一三年)吉蘇路(東山道)開通に関係ある歌か。

揮毫  大阪大学名誉教授
甲南女子大学名誉教授 犬養 孝
文化功労者・文学博士

この副碑は犬養先生の助言によるもので、今回建立の他の四基もすべて同様の副碑を併設した。

このような立派な副碑をもつ文学碑は、あまり例をみないものである。

この歌の「信濃道」とはどこをさすのかがしばしば問題になるのだが、「続日本紀」の「大宝二年始メテ岐蘇山道ヲ開ク」と同書の和銅六年の「美濃・信濃二国ノ堺、径道険隘ニシテ往還歎難ナリ、仍テ吉蘇路ヲ通ス」を論拠としてS61年刊の小学館「完訳日本の古典・万葉集」では「吉蘇路は今日の岐阜県中津川市の坂本から長野県阿智村に越える神坂峠がそれである」とし、同年刊の有斐閣「万葉集全注」では、 「大宝二年開通の岐蘇山道も和銅六年開通の吉蘇路も共に現在の木曾街道とする『大日本地名辞書』の吉田東伍説」、 「大宝二年の岐蘇山道を開くは神御坂とする一志茂樹説」、 「神坂峠越えとする歌人の土屋文明説」「清内路越えとする田辺幸雄説」などをあげているが、 この「全注」巻第十四の筆者水島義治先生は「吉蘇路は現在の木曽路=木曾街道とするのが定説」としつつも、防人の歌の「神の御坂」は神坂峠で動かないとし、「改めて、いったい信濃路とはどこなのかと考えさせられる。」と結んでいる。

また歌の解訳にしても、 「女の許に通って来た男が帰ろうとする時に女の言った言葉である」という考えかたもあるが、「信濃路の開設まもない頃にできた地方民謡」とする説もあり、沓についても前記の小学館本は「馬に足を怪我させなさるな、沓をはかせてあやりなさい、あなた」としている。

馬の沓ではこの歌の作者の女性の愛情も半減してしまう。

すなおに「旅立つ夫の門出に、夫の身を案じた妻の歌」と解したい。

この歌で「沓」というのは履物一般をいい、布・皮・木・藁などで作った足を覆う物、ここではたぶん藁靴かわらじのようなものといわれる。

なお、この歌の歌碑は県内にすでに二基があり、一基は東筑摩郡四賀村の保福寺峠にあるもので昭和五十八年建設、碑の高さ二九〇cmという大きなもの、もう一基は更科郡上山田町の千曲川のほとり万葉公園にあるもので、昭和六〇年建設、碑高は一四一cmである。

保福寺峠の碑は園原の碑と同じ万葉仮名で書かれているが、千曲川畔の碑はひらかなまじりの文体である。

この歌碑の除幕は他の四基に先立って平成六年十月三十日に、西宮市から犬養先生をお招きして行われた。

よい場所に建ててくれたと犬養先生はたいへん御満悦であった。

3.李花集の歌碑

「李花集」は、後醍醐天皇の第八皇子宗良親王の私家集で、親王の作八九九首と詞書中の歌・親王への返歌等一〇七首、計一〇〇六首を収めている。

親王は応長元年(一三一一)誕生、長じて天台座主、尊澄法親王と称した。

元弘元年(一三三二)兄護良親王と共に倒幕運動に加わり笠置山落城後捕えられて讃岐国松山に流されたが、幕府滅亡後座主に還任、のちに還俗。

足利尊氏の光明天皇擁立による南北朝両立の乱世の中を各地に転戦、興国五年(一三四四)大河原(現大鹿村)に来住、この地を本拠として三十余年間兵戦のことに従われた。

晩年は吉野に帰り、「新葉和歌集」(準勅選和歌集)を選し、 乱世の中で南朝回復を期して流離した人々の歌を集録した。

信濃国の滞在が長かったことから「信濃宮」とも呼び、 大鹿村には神社「信濃宮」がある。

碑の脇の副碑には次のように刻まれているが、歌の前の詞書の部分、 信濃国いなの山里にしばしば住み侍りしに雪いみじうふりてつもりて 道行きぶりもたえはてにしかばは省略されている。

まれに待つ都のつても絶えねとや木曽の御坂を雪埋むなり

出典  李花集・冬(宗良親王の私家集  弘和~元中年間成立)
作者  宗良親王  後醍醐天皇の皇子(一三一一~一三八五年頃)

大河原(大鹿村)に約三十年間在住、信濃宮ともいう。

大意  まれに届く都からの音信を待ちわびているのに、それさえもとだえてしまえというかのように、木曽の神坂を雪が埋めてしまった。

揮毫  阿智村文化財委員 阿智短歌会代表     原  隆夫

宗良親王の事績については、郷土史家の市村咸人先生が関東甲信越及び畿内を踏査して詳細に検討された文章が「市村咸人全集第三巻」に集録されている。

その調査の労苦には脱帽敬服のほかはない。

その中には宗良親王の子とされる浪合戦死の「尹良親王」についても考察されている。

宗良親王の没年と終焉値については定説がないようであるが、京都醍醐の三宝院文書に天文一九年(一五五〇)文永寺の住僧が宗良親王の和歌を写しとった後に「大草と申す山の奥の、さとの奥に大川原と申す所にて、むなしくならせ給うとぞ、あわれなる事どもなり」とあることから大河原終焉説が有力とされるが、没年は依然不明である。

なお、この歌を今回の建碑の対象歌として選んだのは、皇族顕彰の意図ではなく、異郷の僻地にあって都からの音信を待つ人間的心情が、神坂峠に大雪が降って交通もとだえてしまったという実情に即して詠まれていることに共感をそそられるからである。

4.源氏物語箒木の歌碑

暮白の滝の手前にある滝見台への道横に、台石を省いてどっしりと据えられた一対の相聞歌の歌碑である。

「源氏物語」は外国にまでも知られた平安時代中期の長編物語で 五十四帖からなる。

作者が紫式部という女性であることも当時の文化を知る上で興味深い。

歌碑の歌は第二帖「箒木」の巻にあるもので、光源氏が想いをよせた女性「空蝉」に贈った歌と、自分の身分を賤しんで応じようとしない空蝉の返歌であるが、どちらも園原にあった不思議な名木「ははき木」にことよせて作られた技巧的な歌である。

ははき木については、次項の歌碑に刻まれた坂上是則の、園原や伏屋におふるははき木のありとはみえてあはぬ君かなをふまえて詠まれたものである。

是則の作歌から源氏物語の成立までには、おおよそ百年の月日が経ているが、「園原」の「ははき木」が都の人々に知られていて、多くの贈答歌などに言葉のアヤとなったり、比喩(たとえ)となったりして使われていたことが想像される。

昭和三十六年に当時飯田図書館長であった池田寿一先生が編纂された歌集「伊那」古歌編から、平安時代に作られた「箒木」を詠みこんだ歌を拾い上げてみると十七首に及んでいる。

この歌碑の副碑には次の文言が刻まれている。

箒木の心を知れで園原の道にあやなく惑ひぬるかな 光 源 氏

数ならぬ伏屋に生ふる名のうさにあるにもあらず消ゆる箒木 空 蝉

出典  源氏物語 第二帖 箒木
作者  紫式部(九七〇頃~一〇一六頃)

大意  箒木のように近寄ると消えてしまうあなたの気持ちも知らず近づこうとして、いたずらに園原の道に迷ってしまいました。 光源氏

いやしい伏屋の生まれといわれるのがつらくて、箒木のように消え入りたい私でございます。 空  蝉

なお、現実の箒木は、この歌碑の北方、林道に案内板のある所から細い山道を一五〇m ほど登った山の東斜面にあったが、昭和三十三年九月の台風で倒れてしまい、今は枯死した幹の根本の部分数mを残すのみとなってしまい後継木はまだ若い。

5.新古今集箒木の歌碑

ははき木の立っている山の登り口の近くに建っているのが、新古今集の歌碑である。この歌は園原を歌った歌としては最も古く、内容も園原のシンボルであった箒木を端的に紹介する歌として、格好の場所に建てられたものである。

箒木についての最も古い記録は、平安末期の歌人藤原基俊の「基俊判伝」という書物「昔風土記を見たときに、このはゝき木のことは大略見たのであるが、年久しくなって、はっきり覚えていない。

この木は美濃と信濃の国境、その原ふやせというところにある木で、遠くより見れば、箒をを立てたように見え、近づいてみるとそのような木がない。

しかれば”ありとは見れどあわぬもの”にたとえられている。(大意)」とある。

風土記とは、和銅六年(七一三)元明天皇が諸国に命じて、その国の地理・産物・地名・ 伝承などを集めて報告させたもので、その中に園原の箒木の記事があったとすれば奈良時代のはじめにすでに名木として存在していたことがわかるのであるが、信濃国の風土記は疾うに失われて現存しない。

副碑の文言は次のようである。

その原や伏屋におふるははき木のありとはみえてあはぬ君かな

出典  新古今和歌集  巻十一恋歌一 (九九七)
作者  従五位下加賀守  坂上是則  延長八年(九三〇)没

大意  園原の伏屋に生えている箒木のように、 あると見えていて近づけば消え失せて逢ってくれないあなたよ (平定文の家の歌合わせに「合わざる恋」)

揮毫  太玄会理事審査会員
県書道協会理事審査会員    塚 田 嶺 山

坂上是則は平安時代前期の歌人で三六歌仙の一人とされる。

蝦夷征伐で有名な坂上田村麿から四代目にあたるという。

また蹴鞠の名人で、宮中の蹴鞠の催しの時二百六回も続けて鞠をけり上げて落とさなかったという。

百人一首に「朝ぼらけ有明の・・・」がある。

以上地域文化財保全事業により建立された古文学詩歌碑のうち、万葉集東歌の歌碑を除く四基は平成七年三月末までに完成し、四月二十六日に序幕した。

園原の里見学探訪の資料として、既設の文学碑七基について概要を記す。

6.園原碑

園原の里の来歴を万葉仮名で刻みつけた大石碑で、「園原碑」の題字は幕末の七卿おちの一人として知られる東久世道禧の書、本文は岩村田(佐久市)の生まれで国学を学び倒幕運動に参加、明治七年熱田神宮神官となり後大宮司となった角田忠行の撰文、書は鉄斎の号で有名な富岡百錬で、明治大正画壇の第一人者といわれた。

伊那地方へは明治八年、同三十六年の二回来訪した。

碑文の訓読を記すと、みすずかる信濃国伊那郡園原の里は、みず垣の久しき昔に開け、ちはやふる神代にしては八意思兼神の御子天表春之命天降り着き給いぬ。

阿智神社川合の陵などそのみ跡なる。

うつし身の人王となりては、景行天皇の皇子倭建命いでまして御坂の神を言向け給いぬ。

御坂の社あるはその遺蹟になむ。

かく夙よりの官道なれば、おのずから都人の往来も多かりしゆえに、 万葉集にも神の御阪と詠み、また園原、伏屋、箒木等もいにしえ人の歌詞にもみえて、 国風と共にその聞え世に高く、また紫の女は物語の巻きの名にさえ負わせたりき。

かく名所多くある地なるにかつて久しく岐蘇路開けし以後、 清内路・大平などの枝道も漸漸に多くなりきて、ここを往き反る人いと稀稀なれば、 ついにはかくある名所の消え滅びむことを太く慨み、この地の志篤き者ら相議りて その由を碑文にのこし、後の世に伝えあるいは古を好む忠人の導にもとて、 その梗概をかくの如くになむ。

熱田神宮司従五位  角田忠行  撰
正七位  富岡百錬  書
明治三十四年八月
園原古蹟保存会
主唱者  熊谷直一・園原里中・花井前憲・鐫

7.万葉集防人の歌碑

神坂神社拝殿の前の下段に万葉集防人の歌の碑がある。

本来なら碑石の東面に歌が彫られてよいと思われるのだが、西面に歌が刻まれ、東面には園原の古墳保存に協力した百十二名の氏名が細字で刻まれている。

歌は万葉仮名で、 知波夜布留賀美乃美佐賀爾怒佐麻都里伊波負伊能知波意毛知知我多米

主張 埴科郡神人部子忍男

この歌は天平勝宝七年(七五五)九州北辺の警備に徴発された 兵士の歌の中の一首で万葉集巻二十にあり、歌番号4402である。

この歌が注目されたのは、昭和四十三年に神坂峠を越える 峰越し林道の開発に先立って行われた峠遺跡の発掘調査により、 千数百点にのぼる石製模造品が出土し、 これがこの歌の「幣まつり」の幣の原型であることが実証され、 峠神祭祀のため手向けられたぬさの実態と符号したことである。

神坂峠遺跡は国指定の史跡となり、出土した石製模造品等は阿智村の文化財になっている。

この防人歌碑の建立は明治三十五年九月で、揮毫は上卿の北原阿智之助である。

8.有賀光彦歌碑

恵那山トンネル排気塔の敷地につづく史跡苑にあり、自然石に次の歌が刻まれている。

うつせみの世のちりはかで園原の伏屋にひとりおふるははき木 有賀光彦

碑陰には、「上伊那郡南殿の里人 有賀光彦 明治二十七年四月 熊谷直一 当平中」とあり、熊谷直一の関係した建碑としては最初のものである。

有賀光彦は上伊那郡南箕輪村南殿に天保十二年(一八四一)に生まれ、江戸に出て勉学、帰郷後村の産業・教育のため尽力した人で、和歌の道にもすぐれていた。

9.朝日松の歌碑

駒つなぎの桜から滝見台に至る古代東山道ルートの中ほどに、朝日松という名木があった。

大きな二又の松であったが、昭和三十四年九月の台風のため倒れてしまい、今ではその残幹も朽ちはてようとしている。

その昔、園原長者がこの地を立ち去るとき、この松の根元に金の鶏を埋めた。

それが毎年一月一日の朝この木の下へ行くと鶏の鳴き声が聞こえるという伝説があり、そのため園原では鶏を飼う家がなかったと伝えられている。

いま二代目の松が五十年ほどになっているが、その近くに花崗岩で多角形の歌碑が一基あり、碑の表に、

日かげさすこの園原の朝日松梢もたかし色もめでたし 美静

美静は姓を福羽といい、島根県生まれの国学者 明治四十四年没、七十七歳。

碑陰は、朝日松ガ故アリテ伐採セラレントスルヲ憂ヒ山本村伊坪源太郎氏ガ名所保存ノタメニ之ヲ買収シ土地六十坪を付シ神坂神社ニ奉献セシモノナリ 近藤赤嶺書

とあって、大正九年小野川小学校(現阿智第三小学校)の校長であった伊坪氏の美挙により、この名木が伐採をまねがれたことが明らかにされている。

この碑の建立は大正十五年である。

10.広拯院遺跡碑

園原集落のほぼ中央にある通称「月見堂」は、伝教大師が建てた広拯院の跡地といわれ、正面に「伝教大師広拯院遺蹟」という大形の碑があり、先年「夜烏山広拯院」という山号院号が定められた。

伝教大師(当時は最澄)は東国へ布教のため、弘仁六年(八一五)東山道を下り、神坂峠を越えてこの峠越えが予想以上に困難なことを体験し、峠の東西に広拯・広済の二つの院(布施屋)を設けて旅人の休憩・宿泊に供した。碑陰に、弘仁六年天台宗祖伝教大師東国巡化の砌、御坂峠を越ゆ。

この坂艱難にして往還に宿無きを憂へ、誓って広済・広拯の両院を置く。

此の地即ち広拯院遺蹟なり。

比叡山開創一千百五十年記念法会事務局
(伝教大師の東国布教は弘仁八年(八一七)に訂正されている。)
昭和十二年四月一二日建之
碑陰の文は伝教大師の弟子仁忠の著した「叡山大師伝」の部分要約である。

11.源仲正名月の歌碑

月見堂は本来薬師堂であるが、眺望がよく、かつて文人等がここで中秋の名月を賞したといわれる。

それは、ここに歌碑のある源仲正の秋の月にちなんでのことで、このあたりの谷川の水を集めて天竜川にそそぐ阿智川を、別に月川と呼んだのも園原が月の名所であったことによるものである。

歌碑は満月をかたどった円形で、表面に、 木賊刈るそのはら山のこの間よりみがかれいづる秋の夜の月 源仲正

とあり、この地の特産で、園原の枕言葉でもある木賊で磨きあげたかと思われる 月の出を詠んだもの。(信濃の三名月の一つと言われている)

この歌は鎌倉時代末期に編纂された「夫木和歌抄」のあるもので、 四区は「みがきいでぬる」が原作であるが、 後世になり「みがかれいづる」と改作されて流布したといわれる。

源仲正は平安末期の歌人で原三位頼政の父親である。

また、謡曲の「木賊」別名「木賊刈」や長唄の「木賊」はこの地が舞台である。

碑の裏には「園原名所」として、
神の御坂、日本杉、腰掛石、箒木、駒繋桜、朝日松、金鶏跡、千代の沢、伏屋の里、姿見の池、長者屋敷、闇白滝、木賊山、月見堂、富士見台、恵那の雪、川合陵、弓俟の紅葉、網掛峠、矢平関跡、夜烏山、将軍塚、黄金岩、鶴巻淵、
以上二十四か所をあげている。

この碑は明治三十五年建立、筆者は北原阿智之助である。

12.芭蕉・卓池の句碑

月見堂の境内西端に松尾芭蕉と鶴田卓池の句碑がある。

芭蕉の句を中央からやや左よりに、卓池の句をその右に添えて彫られている。

翁というのは芭蕉のことである。

かゞやきのますばかりなりけふの月 卓池

此の道や行人なしに秋の暮 翁

芭蕉の句は元禄七年九月大阪での作、この作句後半年ほどして芭蕉は没した。

卓池は三河国岡崎の人で、享和~文化のころ(一八〇一~一八一七)飯田に来遊した。

碑の裏には、伍和宗円寺の住職圭布(のち圭斎・名誉和尚)と栗矢の原九右衛門重穏(樗平=重与の父)の二人が発願主であることが刻まれている。

天保十二年八月十五日、すなわち中秋の名月の日の建立である。

13.熊谷直一翁

これも月見堂の境内にある歌碑で、一生を園原の古跡保存と顕彰に尽力した園原直一翁の辞世の歌を刻んだ頌徳碑である。

上部に「頌徳碑」と額作りにし、その下へ、 我魂は神の御坂に止まりて栄行く御代を楽しくぞ見む 直一 日夏耿之介書

とあり、すでに右手が不自由になった日夏耿之介が左手で書かれたものである。

日夏は飯田市の生まれで文学博士、晩年を飯田に静居して昭和四十六年没、本名樋口国登。

また裏面には、 熊谷直一翁は天保六年園原の里、定兵衛の長男に生れ、幼にして同地薬師寺僧円浄について学び、 成人と共に敬神の念厚く、一生を通して園原の名所旧蹟を全国に頌め、 文化を導入し公益に寄与すること偉大なり。

その功績たるや人の世の鑑たり。大正四年八十一才にして永遠に世を去る。

茲に翁逝きて五十年、生前力を尽されたる神坂路が中央高速道として実現の近きを喜び、 神坂社氏子総代相謀らい広 く浄財を得て之を建つ。 昭和四十年四月 神坂社氏子中 石工鼎町花井仁逸

とある。裏面は当時智里西小学校長の北沢保穂(豊丘村神稲)の書である。

<平成七年五月・編集   原 隆夫>