6.園原碑

rekishi_p06園原の里の来歴を万葉仮名で刻みつけた大石碑で、「園原碑」の題字は幕末の七卿おちの一人として知られる東久世道禧の書、本文は岩村田(佐久市)の生まれで国学を学び倒幕運動に参加、明治七年熱田神宮神官となり後大宮司となった角田忠行の撰文、書は鉄斎の号で有名な富岡百錬で、明治大正画壇の第一人者といわれた。

伊那地方へは明治八年、同三十六年の二回来訪した。

碑文の訓読を記すと、みすずかる信濃国伊那郡園原の里は、みず垣の久しき昔に開け、ちはやふる神代にしては八意思兼神の御子天表春之命天降り着き給いぬ。

阿智神社川合の陵などそのみ跡なる。

うつし身の人王となりては、景行天皇の皇子倭建命いでまして御坂の神を言向け給いぬ。

御坂の社あるはその遺蹟になむ。

かく夙よりの官道なれば、おのずから都人の往来も多かりしゆえに、万葉集にも神の御阪と詠み、また園原、伏屋、箒木等もいにしえ人の歌詞にもみえて、国風と共にその聞え世に高く、また紫の女は物語の巻きの名にさえ負わせたりき。

かく名所多くある地なるにかつて久しく岐蘇路開けし以後、清内路・大平などの枝道も漸漸に多くなりきて、ここを往き反る人いと稀稀なれば、ついにはかくある名所の消え滅びむことを太く慨み、この地の志篤き者ら相議りてその由を碑文にのこし、後の世に伝えあるいは古を好む忠人の導にもとて、その梗概をかくの如くになむ。

熱田神宮司従五位  角田忠行  撰
正七位  富岡百錬  書
明治三十四年八月
園原古蹟保存会
主唱者  熊谷直一・園原里中・花井前憲・鐫