5.新古今集箒木の歌碑
ははき木の立っている山の登り口の近くに建っているのが、新古今集の歌碑である。この歌は園原を歌った歌としては最も古く、内容も園原のシンボルであった箒木を端的に紹介する歌として、格好の場所に建てられたものである。
箒木についての最も古い記録は、平安末期の歌人藤原基俊の「基俊判伝」という書物「昔風土記を見たときに、このはゝき木のことは大略見たのであるが、年久しくなって、はっきり覚えていない。
この木は美濃と信濃の国境、その原ふやせというところにある木で、遠くより見れば、箒をを立てたように見え、近づいてみるとそのような木がない。
しかれば”ありとは見れどあわぬもの”にたとえられている。(大意)」とある。
風土記とは、和銅六年(七一三)元明天皇が諸国に命じて、その国の地理・産物・地名・ 伝承などを集めて報告させたもので、その中に園原の箒木の記事があったとすれば奈良時代のはじめにすでに名木として存在していたことがわかるのであるが、信濃国の風土記は疾うに失われて現存しない。
副碑の文言は次のようである。
その原や伏屋におふるははき木のありとはみえてあはぬ君かな
出典 新古今和歌集 巻十一恋歌一 (九九七)
作者 従五位下加賀守 坂上是則 延長八年(九三〇)没
大意 園原の伏屋に生えている箒木のように、あると見えていて近づけば消え失せて逢ってくれないあなたよ
(平定文の家の歌合わせに「合わざる恋」)
揮毫 太玄会理事審査会員
県書道協会理事審査会員 塚 田 嶺 山
坂上是則は平安時代前期の歌人で三六歌仙の一人とされる。
蝦夷征伐で有名な坂上田村麿から四代目にあたるという。
また蹴鞠の名人で、宮中の蹴鞠の催しの時二百六回も続けて鞠をけり上げて落とさなかったという。
百人一首に「朝ぼらけ有明の・・・」がある。
以上地域文化財保全事業により建立された古文学詩歌碑のうち、万葉集東歌の歌碑を除く四基は平成七年三月末までに完成し、四月二十六日に序幕した。
園原の里見学探訪の資料として、既設の文学碑七基について概要を記す。