3.李花集の歌碑

rekishi_p03「李花集」は、後醍醐天皇の第八皇子宗良親王の私家集で、親王の作八九九首と詞書中の歌・親王への返歌等一〇七首、計一〇〇六首を収めている。

親王は応長元年(一三一一)誕生、長じて天台座主、尊澄法親王と称した。

元弘元年(一三三二)兄護良親王と共に倒幕運動に加わり笠置山落城後捕えられて讃岐国松山に流されたが、幕府滅亡後座主に還任、のちに還俗。

足利尊氏の光明天皇擁立による南北朝両立の乱世の中を各地に転戦、興国五年(一三四四)大河原(現大鹿村)に来住、この地を本拠として三十余年間兵戦のことに従われた。

晩年は吉野に帰り、「新葉和歌集」(準勅選和歌集)を選し、乱世の中で南朝回復を期して流離した人々の歌を集録した。

信濃国の滞在が長かったことから「信濃宮」とも呼び、大鹿村には神社「信濃宮」がある。

碑の脇の副碑には次のように刻まれているが、歌の前の詞書の部分、信濃国いなの山里にしばしば住み侍りしに雪いみじうふりてつもりて道行きぶりもたえはてにしかばは省略されている。

まれに待つ都のつても絶えねとや木曽の御坂を雪埋むなり

出典  李花集・冬(宗良親王の私家集  弘和~元中年間成立)
作者  宗良親王  後醍醐天皇の皇子(一三一一~一三八五年頃)

大河原(大鹿村)に約三十年間在住、信濃宮ともいう。

大意  まれに届く都からの音信を待ちわびているのに、それさえもとだえてしまえというかのように、木曽の神坂を雪が埋めてしまった。

揮毫  阿智村文化財委員
阿智短歌会代表     原  隆夫

宗良親王の事績については、郷土史家の市村咸人先生が関東甲信越及び畿内を踏査して詳細に検討された文章が「市村咸人全集第三巻」に集録されている。

その調査の労苦には脱帽敬服のほかはない。

その中には宗良親王の子とされる浪合戦死の「尹良親王」についても考察されている。

宗良親王の没年と終焉値については定説がないようであるが、京都醍醐の三宝院文書に天文一九年(一五五〇)文永寺の住僧が宗良親王の和歌を写しとった後に「大草と申す山の奥の、さとの奥に大川原と申す所にて、むなしくならせ給うとぞ、あわれなる事どもなり」とあることから大河原終焉説が有力とされるが、没年は依然不明である。

なお、この歌を今回の建碑の対象歌として選んだのは、皇族顕彰の意図ではなく、異郷の僻地にあって都からの音信を待つ人間的心情が、神坂峠に大雪が降って交通もとだえてしまったという実情に即して詠まれていることに共感をそそられるからである。